左から姉、菊一さん、伯母、私(松尾容子)、父
「きくいち」の名前の由来
熊野菊一。私の祖父の名前である。
戦前に大阪の此花区で喫茶店を営み、巧みなアイデアで店はかなり繁盛していたと母から聞いた。
自分の名前の「菊一」を店の名前にして、入り口の、大きな赤い暖簾(のれん)に白抜きの“菊一”がトレードマークであった。
大きなカップにつがれたコーヒーと、自分で好きなケーキを取って来る(お皿の色で値段が決まってたらしい)というシステムが当たり、長居ができる店として政治談議に花を咲かせる殿方や甘いもの好きなレディたちの評判になった。毎月1日はケーキ半額デーとして、店の前には長い行列ができていたそうだ。
やがて大阪大空襲で店は全焼、街は焼け野原となり、一家で命からがら故郷の山口に戻った。
私が覚えているのは、大きな木造倉庫の一角に作られた小さな豆腐工場で豆腐を作っていた祖父の姿だ。
小さい頃、夏休みによく遊びに行った。話上手で、家にはいつも客人がいて、酒を酌み交わしながら話に花が咲いていた。子どもたちも祖父が大好きだった。祖父が思いつくままに話す“三角おばけ”というヒーローが活躍する、続きものの冒険ストーリーにわくわくし、「年をとると目の皮が柔らかくなって、ビー玉が入るんぞー」と言って、目からビー玉を出して見せるトリックに、取り囲んだ近所の子どもたちと一緒に、私も本気で驚いていた。
祖父は分家の息子で、子供の頃は貧しい暮らしぶりだったそうだ。青年になって一念発起して満州にわたり、その後大阪で一旗揚げた。
当時、大阪市内を1円均一で走るタクシー「円タク」の事業に関わっていたようだ。円タクは東京よりも先に大阪で始まっており、母の話では、祖父はその創始に関わっていたと言う。財を築いて大阪では羽振りのいい生活をしており、母は「ええしの子」と呼ばれて結構ぜいたくな暮らしをしていた。祖母の昔話を聞いていると、当時の大阪財界の大物の名前などが出てくるので、昭和初期の歴史の一端を垣間見るようで感慨深い。倉庫の一角に拵えた豆腐屋の家には、フロックコートに山高帽の当時の祖父の写真が飾ってあり、今にして思えば、華やかなりし頃の唯一の名残りだったのだと思う。
その当時の財を元手に始めた喫茶店、それが「菊一」であった。
根っから商売の才があった祖父は、
店の立地は「2か所から入れる見晴らしのいい角地」にこだわり、
「暖簾は、ぼろぼろのほうがいいんや。客が多い証拠だから」と新しいものに取り換えようとする祖母を叱責した
など面白い逸話が多く、私は母の話を飽きずに聞いた。
満州での経験から、祖父は常々「金貸しと女郎屋と食堂は、絶対にやらない」と言っていたそうだ。金貸しと女郎屋は何となくわかるが、食堂というのは一体何だろう。満州でどんな体験をしたのだろう。
大空襲のときには、自分の店が焼けるのをどんな思いで見ていたのだろう。
それでも町内会長をしていたため近所の人の世話を優先して、家族は先に疎開させ、自分は一週間遅れて故郷に戻った。
火に飲まれる自分の店の前で呆然と立ち尽くす隣のテーラー(洋服店)のご主人に「〇〇さん、しっかりせい!」と大声で声をかけ、無理やり避難させていた、と臨場感たっぷりに話してくれた母。認知症を患いながらも「地獄絵図のようだった」と空襲の記憶を鮮明に話してくれた。その母も亡くなって、もう4年が経つ。
遠い昔の記憶になってしまった祖父だが、間違いなく激動の時代を裸一貫生き抜いた人だった。
その祖父の商売の才にあやかって、“きくいち企画”と名付けることにした。
どこか空の上の争いのない世界で、大きなカップでコーヒーでも飲みながら見守っていてくれると嬉しい。
2021年2月吉日 松尾容子